破壊による再生
無限なはずだ。このスペースの上は。見えないものが見えるのは俳優と観客の力で、演劇の力
舞台「機動戦士ガンダム00 破壊による再生 Re:Build」通称ダブステを見てきました、というお話。
原作のファンの方がブログを書いていらっしゃるのを拝見して、演出家のおたくの目線で、「ダブステ」のことを少し話してみたくなったのでこっそりと。
松崎史也のファンで考察厨で心が永遠の14歳な人が書いた文章です。
ネタバレもすると思うのでその辺りはご了承下さい。
まずはじめに。
そもそも「ガンダム」が舞台化するなんて思わなかった。
ましてやその演出をいわゆる「推し」が、やるだなんてもっと思わなかった。
松崎さんの新しい作品が見られること、新境地になるであろうことが分かって死ぬほどワクワクしたと同時に、原作ファンの方がどう思うのか、受け入れられるのか、てかそもそも「ガンダム」ってどう舞台で表現するんだろうか、今まで舞台化されてきた作品とはファン層が違う部分も多そうだけどどうなんだろうって色んなことが不安だったのも事実で。
でも、公式のHPに上がった松崎さんのコメントを拝見したら、いつも通りとてつもなく真摯で。
まあおたくは黙ってワクワクだけ持って待つか!推しの新境地!楽しみ!というスタンスで本番までの時間をすごしてました。(その間ハムレットSCも鉄コン筋クリートもエーステもあったからそれどころじゃなかったとも言うけど。)
初日の数日前にラッセ役の澤田拓郎さんが
「演劇を愛する全ての人に見てほしい」
と仰ってて。
アニメを具現化するだけじゃなくて、ちゃんと「演劇」として作っているんだろうなって伺えてまた観劇が楽しみになりました。
そして迎えた2/15の初日。
とてつもなく明け透けに正直に言うと、この日の観劇終わりのわたしはただただ「無」でした。
原作は松崎さんが脚本演出に決まってから全て履修してなんならアニメ2周するくらいにハマって見てたから、ストーリに置いてかれた訳でもなかった。
仕事終わりでむかったのもあって自分のメンタルが観劇に100でむかえてなかったのはあると思う。
でもとりあえず「無」だった。
今ではこの日の状況を「ガンダムに負けた」って言ってます。
テンポやストーリー展開が早いのもあるけど、舞台上にある情報量がとにかく多い。
「一言でも聞き漏らしたら死ぬ」って感じだった。(これは松崎さんの他の作品でもたまに、というか割と起こる)
座ってたのが前列サイドでたまに見切れたり、外見の演出がアホみたいに好みすぎてそっちに気を取られた隙に情報がなだれ込んできて思考停止した感はある。初日のわたしは多分ELSに脳量子波干渉されてるようなもんだった。完全にキャパオーバー。これは私の頭の容量が少ないのが悪い。
初日をそんな感じで迎えてしまったので、とりあえず翌日からの観劇が割と憂鬱で。「やべえ、通えねえ。」ってなってた。
けど、翌日からなぜか見える景色が変わりまして。
とてつもなく「演劇」をしてるな、って思ったのです。
そこからはただ純粋に単純に楽しく観劇できて。
「いやガンダム00って最高に面白い作品だな!?」ってなったし、舞台のストーリーもスッと入ってきた。
それに加えて情報量が多いからこそあーでもないこーでもないあれは、あの表現は、って根掘り葉掘りできてきてちょー楽しかった。考察厨万歳。
前置きが長くなってしまいましたが、以下そんな状態の考察厨が勝手に決めつけて考察したり好きだったところを羅列していくような文章です。
パンフレットの演出家挨拶に書いてあるけど、まず大前提として
「ガンダムを描くにあたって演劇は最適解ではない」
ってことがダブステの根底にあると思ってる。
「じゃあ、演劇でガンダムをやる意味とは?」
という部分を、とことん突き詰めて挑んでるように私は感じました。
だからこそのモビルスーツ戦の演出なんだと思っています。
もちろん選択肢として、コックピットのセットは用意して、アニメのモビルスーツ戦の映像を流す、新規映像を流す、とにかく視覚として実際の機体の詳細な映像や画像を出すって手もあったと思う。
でもそれじゃあ、どうあがいても、どれだけクオリティを上げても、アニメの劣化版にしかなり得ないんじゃないかな、と。
だってガンダムを描くにあたってアニメが最適解で、なおかつそれが原作で、しかもその原作アニメが最高で至高なんだから。
そんな完全無欠で超絶カッコいい原作アニメに対して同じ方向性での表現を目指しても、それはただの【アニメにできる限り近づけた演劇に似たなにか】にしかならない。
それじゃあ「演劇作品として今ガンダムをやる意味」はない。っていうのが、共通認識としてあったんじゃないかな、って勝手に感じています。
それじゃあ、それが分かった上でどう「演劇作品」にするのか。対アニメに関しての演劇という表現方法のアドバンテージとは何か。
これが冒頭に載せた松崎さんの挨拶にもある
「演劇の力」なんだと思ってる。
私が考えるアニメや小説の特徴として
「その世界は、物語の中で起こる事象のみで完結する」
という点があると思っています。
その物語から視聴者に何を感じて欲しいか、視聴者はなにを思うのか、ということはもちろん考えられて作っていて、作品の中に内包されていても、「物語を進める」という観点においては、視聴者の存在は想定されずに世界が成り立つ。視聴者は世界を見守る傍観者。
演劇ももちろん、ある一点ではそう。そうなんだけど。少なくとも松崎さんの作る「演劇」は、松崎さんの言葉を借りて表現すると
「演劇を演劇たらしめる最低限の要素は俳優と観客」
で。つまりそれはそもそも演劇は観客がいなければ存在し得ない、物語が生まれないということで。
物語を進める上で、演劇が演劇である上で。そこに俳優がいて、観客がいて、俳優も観客も生きていて、ここまで生きてきた人生があって、舞台に立って、客席に座って、感情を動かして、動かされる。
俳優の「演技」と、観客の「想像力」が合わさって、初めて「物語」が紡がれる。
この考えを大切にして作られているように感じました。
その想像力をできる限り最大限に引き出す演出がなされていたのがモビルスーツ戦だと思っています。
想像力ゼロにしたらさ、あんなの櫓の上に乗った椅子がただ動いてるだけなんだよね。
でもそこに俳優の演技と、アンサンブルが、人が動かすからこそ生まれる動きと、観客の想像力が合わさることで、不思議とガンダムが見えてくる。ような気がする。
そのうちのどれか一つが欠けても見えてこない。物語が進まない。
演劇の「面白さ」が詰まった表現方法だと思ってる。
見えてこなかった人は想像力が足りないとかそんな話じゃなくて。そこは松崎演出との相性というか。対その人において松崎さんが俳優の演技と観客の想像力を「過信」してしまって、ガンダムを描けなかったから生まれてしまう悲しい結末だと思ってます。それは観客全ての人に対応できない演出家が悪い。
でも、「ガンダムに演劇という力で武力介入する」って、こういうことだよな、って思います。
「演劇の力」をフルスロットルで駆使して殴ってくる。ボッコボコにしてくる。そうでもしなきゃ「演劇」でガンダムなんて描けない。
そんな覚悟が伝わってくるような演出だなって思います。
それに加えて、役者が実際に殺陣をすることで、「ガンダムも根底は人対人の戦いだからこそここまで胸が熱くなる」ってことが表現されていたように思います。
あともう一つ、「観客の存在」が大前提として物語が進んでるのかもしれないと思ったのが、沙慈・クロスロードとルイス・ハレヴィが舞台の上にいないこと。
全キャストが発表された時点で沙慈とルイス(とマリナ姫)がいないことに割と騒ついてた気がするんですが、ファーストシーズンにおける沙慈とルイスが担っていた「一般人の目線」は、観客に委ねられたのかな、と感じています。
ルイスがいないのにネーナの結婚式場を爆撃するシーンが残ったのは、物語の上でソレスタルビーイングがトリニティと対立していく構図を描くためにも必要だったけど、あそこでネーナが「なんかむかつく!」「死んじゃえばいいよ!」ってセリフを【観客】にむかって投げつけて、客席後方まで爆撃されているかのように音と照明で表現するのは、【観客】こそが【一般人】だからかな、って。
少なくとも私はあのシーンでネーナに死ぬほど嫌悪感を覚えたし、「お前が消えてまええええええ!!!」ってなってて。舞台上に冷えた目線投げつけてて。そんな自分の気持ちに気付いた時「この気持ちを何億倍にもしたらあの時のルイスなのかな」って思った。
ロックオンの最期、「よお、お前ら」って、セリフが客席に投げかけられるのも同じ理由かな。
観客こそが、一般人。ファーストシーズンの沙慈とルイスが担ってくれてた「戦渦と関係のない一般人」としての役は【観客】に任せられると思って潔く削ったのかな、と思ってます。(もちろん尺の都合もあると思う)
そしてもちろんそんな構造だと感じない人もいると思う。そしてそれも想定されてるのかな、って思います。「戦争」が、「ソレスタルビーイングの武力介入」が、確かに同じ世界で起こってるのに、そんな実感が全くなかったファーストシーズン初期の沙慈とルイスがそうだったように。そんな観客がいることも含めての表現なのかな、って、勝手に思っています。
モビルスーツ戦は形としてガンダムを描くために観客の想像力を信じて。
沙慈とルイスが担っていた「一般人の目線」は観客に置き換えて。
どちらも「演劇の最小単位は俳優と観客」って考えの下に成り立っている演出なんだと思う。
いやこんなの一回じゃ気づかねえよ。一度の観劇で受け止めきれないほどの情報量を詰め込むなよ。キャラ解釈が違う。分かる。全部分かる。私は松崎史也のファンだけど東京公演が終わった今でも「いやリヒティ唐突に死んだ!解せぬ!」ってなってる。「ロックオンの最期もうちょい丁寧に扱ってよ!」ってなってる。分かる。全部分かる。その通りである。
でもやっぱりそれでもこの人の作る作品は、演劇に真摯で、観客の想像力を見くびらずにまっすぐに信じて、原作の「根底」にあるものと丁寧に真面目に向き合って描いているのが分かるから。「演劇っておもしろいな」って思うと共に、「このお話面白いな」って私は思うから。
だから、ダブステが、松崎史也の作る作品が好きです。
なんか書いてたらダブステの感想というより松崎作品の好きなところや解釈の話になってきた気がしないでもない。まあいっか。
「演劇としてのガンダム」に、真正面から向き合ってくれたおかげで、大好きな「演劇作品」としてダブステを愛せていることがとても心地よいです。
大阪公演もケガなく最後まで駆け抜けますように。
また、1人でもたくさんの人の心に素敵な観劇体験として残りますように。